誰かの日常

どっかの誰かが考えていること。どっかの誰かが悩んでいること。どっかの誰かが生きていること。脳内で生成させる誰かの日常を切り出した永遠の中二病ブログ

死んだっていい

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どうも。

今回は人生について。

 

内容がかなり濃く、性的・グロテスクな表現も出てくるので、苦手な方はブラウザバックでお願いします。

 

さて、今回も体験談も交えながら「死」について話してみようと思います。

 

皆さんは命についてどう思いますか?

めちゃくちゃ難しい質問だと思います。

そもそも生きているって何なのか。ただ心臓が脈打ち、呼吸をしていれば生なのか。

 

18〜19時代の話です。

自殺を示唆するような掲示板を見ていた時です。

そこには今すぐに死にたいと嘆く人や、うつ病や、精神疾患を患っている方が大勢呟いていました。

その中に、ギャルメイクで死にたいと嘆く19歳の女の子が自傷行為をしている動画や、あざとくとった自撮りをupしていたんですね。

当時から僕の精神は狂っていたので、「あ、これは利用できるな」と思ったんですね。

幸いにもフェイスブックやラインIDが乗っていたので「10万でSEXしよう」とメッセージを送ったら、数分で「いいよ」と返事が来たんです。

 

それからやり取りを繰り返してお互いの顔写真や素性を明かして、上野駅ビッグエコーで待ち合わせすることになったんです。

現れた彼女は真夏なのにトレーナーにショートパンツという姿でした。ファッションの分からない僕からすると暑くないのかと疑問に思ったんですが、今思うと自傷行為の後を隠すための衣装だったのでしょう。

自撮り通りの細身ギャルだったんですが、カラオケの室内に入るなり、「じゃあしよっか」と体を寄せてきました。

僕は長ザイフから10万をテーブルに投げて「いや、それはいいから話をしよう」と切り出しました。

 

それからゆっくりゆっくり彼女という人間を理解していきました。

幼い頃に父親から虐待を受けていたこと。小学生の頃に付き合っていた大学生に輪姦されたこと。母親に愛されたかったこと。友達が信じられなくなったこと。自分がわからなくなったこと。

彼女もまた、こうなりたくてなったわけじゃない被害者だったんです。

人生初でした。フリータイムで個室に入って1曲も歌わなかったのは。

 

それからヤラシイ関係でもなく、定期的に彼女と遊びました。遊ぶといっても、ファミレスを巡ったり、心霊スポットを巡ったり、夜景を見に行ったりです。

 

しかし、こんな関係は長く続きませんでした。

終わりの日は突然やってきました。

 

季節的にも中途半端ま10月中ば。彼女は浴室で自殺しました。

遺書などもなかったようです。

それを知ったのは、彼女からのラインでした。彼女の携帯からお母さんが全員に送っているのでしょう。明らかに定型文のラインがきました。

 

亡くなる3日前の夜、上野駅の中央で話したのが最後でした。

「結局、生きてる意味ないよね」

「だな。俺もそう思う。ただ、みんなそう思いながら生きてるんだと思う」

「あー、楽しかった。本当にありがとうございました」

「どういたしまして。じゃ、また今度」

「またね」

最後の会話はこんな感じでしたね。

 

過去はあまり話せないですが、誰もが簡単に命を捨てるような現場にいたこともあったので、

僕は「死」に関して鈍感になっていたのかもしれません。

高いところから飛んだら死ぬし、首をつったら死ぬし、溺れても死ぬし、人間は生きる方が難しい。死ぬのは簡単だ。1線を越えるだけだから。

 

死にたいと思っているうちはまだ生にしがみついている状態です。

何がトリガーになるか分かりませんが、「もう死んでもいいな」と心から思えてしまったのなら

 

その命を手放すのはあなたの自由だと僕は思います。

 

その後も考えなくていいと思います。全ての思考は死の妨げです。

ただ、忘れて欲しくないのは

人間はいつか必ず死ぬという点です。

 

今極限に辛くても、その先にはまた今までそばに寄り添ってくれていた幸せや愛があるかもしれません。

人生は長いようで短い。振り返ればあっという間。

死にたいなら死ぬ。生きるなら生きる。

 

これもあなたの大きな一歩です。

 

それでは。